新型コロナウイルスの蔓延によって、日本を含めた世界は悲しみと不安に包まれ、今までに見たことのない社会の情景を作りだしている。
14世紀のペスト大流行では総人口の22%が(約1億人)が亡くなったとされ、20世紀初頭のスペイン風邪もまた数千万人に達したとも言われているが*1、両者に共通するのは当時の人間社会のネガティブ・ポジティブの両面を加速させ、社会変容を引きおこしてきたことである。
例えばペストは収束まで1348年〜1400年頃という50年もの期間がかかったが、その間に労働力は激減し、社会不安は増大を続けた。ユダヤ人差別や魔女狩りが蔓延し、英仏の王位継承戦争も泥沼化(百年戦争)した。
当時の経済基盤であった農奴の労働力が激減。穀物主体の経済基盤より生産効率と単価の高い羊毛業がイギリスを中心に発展することとなり、毛織物などの貨幣労働者階級を生み出し、後の産業革命の遠因となった。また、戦乱と疫病の抑圧、そしてそこからの解放がルネサンスに繋がったという見方もある。実際、歴史学上、イタリア・ルネサンスの始まりは14世紀中旬とするのが一般的である*2。
スペイン風邪のパンデミック期間は1918年〜1920年とされている。当時は第一次世界大戦の真っ最中であり、兵士の移動が感染を世界拡大させ、感染被害の拡大が戦争を終結させたとも言われている。その理由として、第一次大戦の戦死者は1600万人と言われているが、その多くは戦傷死よりも病死であったことが挙げられる。同大戦で100万人以上の戦没者を出したのはイギリス(100万人)、イタリア(120万人)、ドイツ(250万人)、フランス(170万人)、ロシア(350万人前後)、オーストリア=ハンガリー(160万人)、そしてオスマン(300万人)であるが、これらの3分の1はスペイン風邪によるものであったとされ*3、これ以外に戦没にカウントされなかった人々が少なくとも1700万人以上と考えられている。スペイン風邪による死者は若年層に集中しており、兵士の戦没のみならず世界レベルで主力労働者層が大きく減少した*4。世界経済は停滞し、ロシア革命などの共産主義台頭と世界恐慌の遠因となったが、戦中にフォード社が確立した大量生産技術がトラクター分野に活かされて農業の効率化と大規模化が進み、女性の労働参加(軽工業の発展)および政治参加が始まる、という大きな社会的パラダイムシフトを生み出している。
このように、大規模な疫病は労働力を著しく減退させる一方で、これを補うための工夫を生み出し、加速させるという一面を持っている。そして、それは世界規模で、ほぼ同時に影響する。我々が現在被っている新型コロナウイルスの患禍もまた、全世界的な大きな転換をもたらすのはほぼ間違いない。戦争はいつの時代も工業の発展を牽引するが、疫病はこれを加速させ、社会そのもののあり方を変えてしまう。21世紀の経済戦争がデジタル発展のきっかけだとしたら、その最中に発生した疫病はデジタル化の加速によって様々な価値観を転換してしまう可能性は極めて高い。すなわち、コロナウイルスは社会不安や経済停滞というネガティブを生み出す一方、デジタルトランスフォーメーション(DX)による社会構造の転換というポジティブな未来を加速する。そして我々は今、その時代の入り口にいる。
新型コロナウイルスが社会にもたらした大きな影響の一つは、消費と労働の制約である。そのキーワードは「非接触」と「非移動」である。人との接触を避け、人の移動を制限することで、直近、既存の対面スタイルの生産活動は大きな制約を受けている。店舗型販売や集会型エンターテインメントは制限され、オフィス通勤も抑制されるので、繁華街での消費が著しく落ち込んでいる。この傾向は自粛解禁後にある程度回復するかもしれないが、もっとも重要なポイントは、消費者が「非接触」「非移動」で可能な消費に強制的に体験移行させられ、これまでのサービス価値とデジタルによるサービス価値それぞれの優劣と利点に気付いたことである。すなわち、リアル体験の重要さとデジタル体験の便利さに改めて気づき、保守的な偏見が消えていく。
eコマースは、買うものさえ決まっていれば明らかに便利である。「買うものは目で見て判断しないと」とこれを避けていた人々も、「非接触」「非移動」環境下の物資調達はeコマースに頼らざるを得ない。それはスマホさえあれば可能であり、クレジットカードがなくてもコンビニでギフトカードを買えば可能であることを再認識し、行動に移す。
同時に、消費行動のエンターテインメント性にほぼ無意識に気づき、行動抑制の中、商店街を闊歩し、ショッピングセンターに出向く。娯楽への参加が憚られる中、唯一可能な消費財調達に娯楽を見出している。
すべての消費者はこの一年、リアルとデジタルのそれぞれの利点を改めて識別することになる。そしてその後は確実にこれを「使い分ける」ことになるだろう。どちらがいいかではなく、両方必要で、必要に応じて使い分ければよいのだ。今後、デジタル消費は便利な「消費リモコン」としての機能を加速させ、あらゆる品目の消費がこれに求められるようになるだろう。同時に、リアル消費は「店舗エンタメ」の側面を強くしていくことになるはずだ。すべての消費者は、商品の選択、決済、入手という全てのプロセスでリアルかデジタルかを自由に選択できる消費を求めることになり、それが出来なければ不便であると認識するようになる。
奇しくも、リアルとデジタルの融合(O2O)やメーカー直販型EC(D2C)がもてはやされ、Amazonや楽天の反映とともに伝統的リテールの追撃が始まっていた最中、コロナ禍はこれを加速することになるだろう。
労働行為もまた、「非接触」「非移動」の影響を大きく受けている。現在、テレワークの推奨が進み、多くのビジネスがこれへの対応に躍起になっていることだろう。そして、労働者もまた、リアルの重要性と共に、デジタルで十分な作業の存在に気づいている。
もっとも顕著な例はビデオ会議である。この技術自体は随分昔から存在していたし、オフィスワーカーでビデオ会議を一度も体験したことがない人は少ないであろう。今やLINEでもできるのだから。それでも「会議や商談は会って話さないとダメ」とこれを避けることが多かったに違いない。コロナによる制約下ではそうも言ってられないので、一斉にビデオチャットを使い始め、これで十分意思疎通は可能であることを知る。もちろん、じれったさや煩わしさはあるものの、先に会議の議題が決まっていて、検討すべき内容と資料が揃っていれば、ほぼ問題なく進行する。同時に、今までの会議の多くが不明瞭な議題のもとに行われ、会議室確保に奔走し、前後の移動時間まで費やすという非効率さに気づく。さらに、ほとんど発言しないメンバーがかなりの数存在し、彼らのための会議調整の無意味さを改めて認識している人は多いに違いない。
営業活動も同様である。「説明やプレゼンは対面してこそ意味がある」は営業の常識である。筆者も営業上がりなのでそのニュアンスはよく分かる。一方で、必要のない打ち合わせがどれだけ多かったかを多くの営業は思い知っているだろう。この訪問制約下で、一定数の営業は「ビデオ会議とメールで十分」な業務がかなりあることに気づいているはずだ。同時に対面営業の効果や強さ、意味とは何だったのかを切り分けはじめているだろう。実際、移動時間がなければより資料作成に時間が割けるはずだし、何より交通費もかからず、アポイント調整も楽なはずである。
事務作業においても同じことが言える。政府や経団連でも話題になっているハンコ文化は言わずもがなであるが、オフィスにいなければアクセスできないシステムの存在に悩まされているはずだ。どちらも既に解決技術は存在し、法的にもクリアできる。契約や決裁文書の押印はサインはもちろん、電子認証でも問題ないし、領収書の信憑は画像でもクレジットカード履歴でも成立する。セキュアな環境にはVPNで接続できるし、アクセスのセキュリティレベルを厳密に管理すれば済む話がほとんどであろう。機密情報への不正アクセスのリスクはリモートも社内環境もさほど変わらない。少なくとも、上司のハンコをもらうために、画像コピーやデータでも十分な紙ファイルのチェックをするためにオフィスに出向く必要はほとんどなく、リモートで代替可能であることに気づく。その作業のために通勤電車に乗り、上司の空き時間を待ち、オフィス内を走り回る時間は限りなくゼロにできる事実にも気づく。同時に、オフィスでやるべき仕事とは何か、何のためにオフィス環境は存在するのかを改めて考えていることだろう。
枚挙に暇はないが、現在のオフィスワークにおいてデジタルで代替できる作業は星の数ほど多く、ほぼ全てが現行の技術で対応可能なものばかりである。これを妨げてきたのは、慣習を守りたいという保守的意識はもちろん、方法論を変えることよる学習負荷、そして自らの商品価値が落ちてしまうリスクが複合して生み出した「変化への恐怖」以外の何物でもない。
図表:日本生産性本部(2020),労働生産性の国際比較2019, retrieved from https://www.jpc-net.jp/research/detail/002731.html
日本の労働生産性の低さは毎年のように叫ばれているが、1994年から2018年まで、実に24年連続でG7諸国最下位である。コロナ禍によって日本のビジネスマンは、これまで我が国のビジネス生産性がビハインドを続けてきた理由を再確認し、それは既存技術で十分転換可能であることもリモートワークを通じて理解したはずである。
少なくともコロナ以降の労働環境において、デジタルで代替可能なナンセンスな業務は敬遠されることになるだろう。すなわち、無駄な会議や出社タスクがなく、生産的な仕事ができる労働環境にしか優秀な人材は集まらなくなる。リモートでできることを出社して行う理由があるとすれば、忠誠心の確認と充実した設備の利用価値、そして仲間との語らいによる刺激やリラックスの享受くらいのものになるだろう。
コロナ禍が我々に強いるものは、短期的には経済の落ち込みであることは間違いない。しかし、これまでに述べたように、消費者と労働者の価値を大きく変えてしまうことが、このウイルスがもたらす最大の強制力であろう。そして、その変化の大部分がデジタルに集約されるであろうことは、多くの人々が現在の体験を通して気づいているはずだ。
現在進行中の”With コロナ”のフェイズが
「人々をデジタルで代替可能なサービスや業務に気づかせる」
時期だとすれば、”After コロナ”は
「デジタルは必須で普通のことであり、出来ていなければ減点」
というフェイズへの移行である。
すなわち、コロナが過ぎ去るであろう数年後は、デジタル化できていない企業は消費者からも労働者からも嫌われ、スポイルされることになる。
デジタル非対応という不便をはるかに超える唯一無二の価値が提供できなければ、リアル店舗は生き残れない。それは限定商品かもしれないし、絶品の料理や、絶妙なホスピタリティ、快適で楽しい空間提供かもしれない。楽しくない店舗は利用する意味がなくなるし、スマホやネットで予約できないレストランは不便である。不便を上回る価値を提供できない企業を、消費者が選ぶことはない。
テーマが不明瞭な会議を強いられ、リモート可能なルーティンのために出勤を強いられる会社を優秀な人材が選ぶことは無くなる。デジタルで代替可能な業務の労働価値は著しく低下するだろう。AIに職を奪われるという恐怖が阻害してきた業務効率化は、デジタルを使いこなす生産性の高い人材確保のための必須要件となる。デジタル化に対応できない、もしくは対応を拒む人々は労働者としての価値を失う。オフィスに鎮座し、調整と管理、ハンコ押しを主業務とし、会議で有益な意見を述べず、意思決定もしない管理職は、生産効率を自ら下げるだけではなく、優秀な人材のエントリーを阻む害悪のレベルにまで到達する。
いずれもこの数年、既にそうなりかけていた傾向が、今後強烈に加速することになる。
新型コロナウイルスは人類史上稀に見る災厄であると当時に、革新のブースターである。直接的には消費と労働力を削ぎ、経済を低迷させるが、同時に旧世代の社会通念から脱却するきっかけとなり、人々が持っている変化への疑念を確信に変え、そして新しい通念に転換する。
ペストがヨーロッパの経済構造変化を加速してルネサンスや産業革命に通じたように、スペイン風邪が女性の経済参加と大量生産を加速したように、コロナウイルスもまた、何かを加速させるだろう。そして、その何かがDXである可能性は極めて高い。
引用情報:
*1
Wikipedia(2020), スペインかぜ, retrieved from
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%81%9C
*2
Wikipedia(2020), ルネサンス, retrieved from
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
*3
Wikipedia(2020), 第一次世界大戦の犠牲者, retrieved from
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85
*4
国立感染症研究所(2020), インフルエンザ・パンデミックに関するQ&A, retrieved from
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html