ワクチンパスポートはコロナ禍の先の標準をつくるのか
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海外留学や就労経験のある方ならおわかり頂けると思うが、多くの国で長期滞在には予防接種の証明が必要になる。そして、この基準は国によってまちまちである。1980年に撲滅宣言された天然痘はさておき、日本ではほぼ撲滅された結核や破傷風、風土病であるマラリアやデング熱など、世界にはいろいろなウイルスが未だ存在しており、抗体をほとんど持たない社会もある。ちなみに、日本の予防接種が充実しているかというと、そうでもない。例えば、新三種混合ワクチン(おたふく風邪、風疹、麻疹)のは1989年からの5年間しか実施されていなかった(後に麻疹と風疹だけ義務化されるようになった)ので、多くの日本人はおたふく風邪の抗体を持っていないが、アメリカなど多くの国では義務化されている*1。
筆者は米国留学時に新三種混合と三種混合(破傷風・百日咳・ジフテリア)を勘違いしていたため、大慌てで現地で予防接種を受けたことがある。このとき大変だったのが接種証明や抗体証明の取得である。そもそもうろ覚えだったので、親に電話で接種情報を聞き、母子手帳を引っ張り出してもらった結果、新三種を受けていない「らしい」ことがわかったのだが、抗体検査をしなければ正確なことはわからない。何より英語の接種証明書を持っていない。抗体検査の結果を得るまでには2、3日かかるし、結果として抗体がなければワクチン接種することになる。そのために接種予約をして、接種までこれにまた1週間くらいかかるのだ。筆者はめんどくさがりなので、検査せず現地でワクチン接種を選んだのだが、つたない英語で謎の医療用語をまくし立て、オペレーションの悪いアメリカの病院で大立ち回りをしたあの日のことは忘れられない思い出である。

前置きが長くなったが、コロナ禍は、こんなストレスをなくすアイディアを生み出そうとしている。「ワクチンパスポート」と呼ばれるこのアイディアは、予防接種記録もしくは抗体検査結果をデジタルデータ化して様々な証明に使おうというもの。新型コロナウイルスの蔓延によって入場制限管理に苦しむイベント業や小売業だけでなく、交通機関の利用や出勤・通学許可の証明書として利用できる可能性がある。スイスの非営利団体と世界経済フォーラムで運営される技術有識者団体のCommons ProjectはCommon Passと呼ばれるアプリを開発している。QRコードでPCR検査の陰性証明や各種ワクチンの接種証明を提示できるとし、全米の保険システムのデータ連携を背景に、ルフトハンザやユナイテッドなどの航空会社と提携を結んでいる*1。IBMはDigital Health Passと呼ばれるアイディアを具現化。同社が推し進めるAIプラットフォームのWatsonを用いて保険情報のウォレットのようなアプリを開発。抗体検査やワクチン接種情報に加え、体温や薬事情報などもQRコードで提示できる仕組みである*2。CNNの報道によれば、両者の統一規格化を支援すべく、IT業界団体のLinux Foundationも協力しているという*3。

これだけの背景があれば、コロナ禍から社会が復帰する未来は明るいと思われる。加えてこの動きが生み出すレガシーは、海外生活を必要とする時の便利さだけでなく、医療データベースの国際接続を促して世界中の医療情報を分母とするビッグデータが出来上がるかもしれないし、電子カルテや処方記録の汎用化が進めば、転院時に無駄な検査をしなくても、薬の手帳を持ち歩かなくてもよい時代が来るかもしれない。しかし、そんな簡単な話ではない、という論調もある。マサチューセッツ工科大学が運営するMIT Technology Review上で社会分断や差別の危険性を説くのは、デューク大学で法律学を教えるNita Farahany教授である*4。彼女は、この種のパスポートは、特定の人々の社会復帰を優先させる結果を導くことになると懸念を示している。コロナ禍で改めて浮き彫りになった社会分断や根強い差別、そしてこれに対する怨嗟の渦が巻き起こっている最中に、富める人が高額を払って検査を受け、最新型のスマホとアプリを片手に仕事に復帰し、社会全体が飢えていたエンターテインメントのチケットをいち早く手に入れたなら、と考えれば、彼女の懸念は最もであると言えるかもしれない。また、医療およびシステムインテグレーションの視点からも、先述のアイディアの難易度は高い。まず、免疫抗体の保有は安全の保証とは言い切れないという点。例えば現状のCOVID-19ワクチンは発症を抑える効果は確認されているが、感染抑制についてはまだ疑問符がつくという。また、異なる国をまたぐ医療データの連携は、言語の壁だけでなく各国のプライバシー法をクリアする問題がある。当然、ビジネスとして考えれば世界規模の巨大ビジネスであるから、その利害調整は計り知れない*5。

ワクチンパスポートのアイディアがコロナ禍の闇を払うには、まだ時期尚早なのかもしれないだろう。ただ、これらの挑戦が違う形で実を結ぶ可能性は非常に高い。多くのDXが挑戦の積み上げの末、コロナ禍で開花したように、医療DXはワクチンパスポートから加速した、と振り返る日が来るのは、そう遠くはない。

*1 Pharmaceutical and Medical Device Regulatory Science Vol.42 No.12(2011), retrieved from https://www.pmrj.jp/publications/02/pmdrs_column/pmdrs_column_24-42_12.pdf
*2 The Commons Project(2020), Common Pass,
retrieved from https://thecommonsproject.org/commonpass
*3 IBM(2020), IBM Digital Health Pass puts privacy first, retrieved from
https://www.ibm.com/blogs/watson-health/health-pass-puts-privacy-first/
*4 CNN(2020), 旅行やイベント復帰は「ワクチン接種証明アプリ」が必須に?, retrieved from
https://www.cnn.co.jp/tech/35164464.html
*5 MIT Technology Review(2020), 「ワクチン・パスポート」のアイデアはなぜマズいのか?, retrieved from
https://www.technologyreview.jp/s/229464/vaccine-passports-could-further-erode-trust/
*6 MIT Technology Review(2021), 「ワクチン・パスポート」のアイデアはどこまで現実的か?
https://www.technologyreview.jp/s/229898/will-you-have-to-carry-a-vaccine-passport-on-your-phone/

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